
深夜二時。こんな時間に、なぜ俺はゴミを捨てに来ているんだろう。いや、わかっている。日中に捨て忘れたからだ。ただ、それだけなのに、妙に胸騒ぎがする。このマンションに引っ越してきてから、どうも心が落ち着かない。特に夜になると、誰もいないはずなのに、どこからか聞こえてくるような気がするんだ、あの、忌々しい……お経の音が。
「憑りついたような恐怖」、まさにこれだ。脳みそが痺れて、呼吸が浅くなる。集中力なんてあったもんじゃない。まともに考えられない。エレベーターを降りて、ゴミ捨て場への廊下を歩く足が、鉛のように重い。心臓がドクドクと不規則に脈打つ。汗が背中を伝う感触が、やけに生々しい。
薄暗いゴミ捨て場の扉を開ける。生ゴミと、プラスチックの混じった、あの独特の匂いが鼻腔を突き刺す。ああ、もう嫌だ。こんな夜中にゴミ捨てなんて。この胸騒ぎ、一体いつまで続くんだ。本当に「憑りついたような恐怖」ってやつなのか?体が震えて、思考がまとまらねぇ……。
扉の向こう、ゴミの山が影絵のようにそびえ立つ。その奥、段ボールが積み上げられた隙間から、低い、重い音が響いてくる。「ドンドンドン……、ドンドンドン……」。最初は気のせいかと思ったが、はっきりと、規則正しいリズムで響き渡る。まるで、そうだ、まるで木魚を叩くような、鈍い響き。
胃の腑がねじれるような不快感に襲われる。暗闇のせいか、それともこの精神状態のせいか、音がやけに生々しく、鼓膜の奥を揺さぶる。まさか、こんな夜中に、ここで……?誰かが、いや、何かが、祈りを捧げているのか?このマンションに、そんな怪しい人間が住んでいたのか?いや、違う、この音は、もっと、もっと遠くから聞こえているような気がする。なのに、やけにはっきりと耳に届く。頭が痛い。
「ドンドンドン……」。音は次第に大きくなり、反響して、ゴミ捨て場全体がその響きに包まれているように感じられた。そして、その重低音の合間に、かすかに、人の声のようなものが混じる。――お経だ。やはり、お経だ。低い、唸るような、しかしはっきりと意味をなさない言葉の連なり。全身の毛が逆立つ。
もうダメだ、逃げたい。今すぐこの場を立ち去って、自分の部屋の布団に潜り込みたい。だけど、足が動かない。恐怖と、どこか奇妙な好奇心が入り混じって、俺をその場に縛り付けている。この「憑りついたような恐怖」が、俺を狂わせているのか?この鼓動の速さ、息苦しさ、まともじゃない。このまま気を失って、ゴミの山に埋もれてしまうんじゃないか。
恐る恐る、一歩、また一歩と、音がする方へ近づく。積み上げられた段ボールの陰、大型家電の隙間。そこから音がしている。薄汚れたゴミ袋の山を避け、錆びた自転車を押しやり、覗き込む。暗闇の中、青白い光が漏れている。
その光の先にあったのは、小さな液晶画面だった。そして、その手前には、いくつものボタンが光る、派手な筐体。ゲーミングPCだ。しかも、電源は、隣の工事現場から伸びた、太いオレンジ色の延長コードが、仮設のコンセントに繋がっている。カフェ、そういえば、来月から24時間営業のカフェがオープンするって貼り紙があったな。その準備で、夜中に機材を搬入してたのか……。
画面には、薄暗いダンジョンらしき場所が映し出され、モンスターが一定のリズムで「ドンドンドン……」と足音を立てていた。それが、この反響する空間で、木魚の音のように聞こえていたのか。そして、かすかに聞こえた「お経」のような声は、ゲーム内の環境音か、あるいは俺の耳鳴りが、勝手にそう解釈した幻聴だったのだろう。
全身の力が抜けて、その場にへたり込む。汗が冷たくなって、鳥肌が立つ。なんだ、こんなことだったのか。拍子抜けするほどの安堵感と、しかし同時に、己の精神状態に対する深い疲弊が押し寄せた。ゴミ捨て場特有の異臭が、今になってようやく意識に上る。こんなものに、これほどまで怯えていたなんて。この「憑りついたような恐怖」は、まだ俺の心に深く根を張ったままだ。明日からは、もう少し、ちゃんと眠れるといいんだが。