
今日も一日が終わった。終わった、というより、日付が変わるまで終わらせてもらえなかった、というのが正しい。会社の駐車場を出たのが午前1時を過ぎていた。シートに身体を沈めると、くたびれた革の匂いと、吸い殻の残った灰皿から立ち上る微かなタバコの臭いが鼻につく。もう何年も前のタバコの残り香だ。俺はとっくに禁煙したのに、この車だけは染み付いた過去から抜け出せないでいる。まるで俺自身みたいに。
ハンドルを握る指の関節が軋む。肩の奥がずんと重い。胃のあたりももやもやと不快だ。この時間、街はしんと静まり返っていて、車のライトだけがアスファルトを切り裂いていく。いつも通る道だ。あの、薄暗いトンネルも、もうすぐそこに口を開けている。最近、あのトンネルを通るたびに、どうにも背筋が寒くなるような気がするんだ。気のせいだ。疲れているだけだ。そう自分に言い聞かせるが、どうもすっきりしない。
バックミラーに目をやった。いつもそうだ。俺の顔は、そこに能面のように無表情に、そしてどこか曖昧に映っている。いや、映っていないと言うべきか。輪郭はわかるが、肝心の表情が、どうしたって見えない。透明な膜が張られているみたいに、ただのっぺりとしている。今日もまた、能面の表情にならぶ自分の顔が見えない。いつものことだ、と諦めに似たため息をついた。
トンネルに入った途端、車のエンジン音が一段と大きく反響する。密閉された空間特有の、あの圧迫感。ヘッドライトが壁に掘られた無数の傷や、水が染み出してできた黒いシミを浮かび上がらせる。トンネルの真ん中あたりに差し掛かった時だ。ふと、もう一度バックミラーに目をやった。
いつもと同じ、能面のように表情のない自分の顔。だが、今日は少し違う。ぼんやりと霞んでいたはずの顔の奥に、何か白いものが重なっているように見えた。能面のような自分の顔が、本当に能面に覆われている、とでも言うのか。ギョッとして、もう一度目を凝らす。いや、気のせいだ。疲労で、影とシミが重なってそう見えただけだろう。俺の能面みたいな顔が、そのまま白い能面に見えたんだ。そんなはずはない。幻覚だ。
しかし、一度そう思い始めると、全身の毛穴がざわつき始める。胃の不快感がさらに増した。背中がぞくりとする。まるで誰かに見られているような、後ろからじっと睨みつけられているような感覚が全身を駆け巡った。気のせいだ、と頭ではわかっているのに、心臓がドクドクと鼓動を速める。
もう一度、後部ミラーを見た。今度ははっきり見えた。白い能面だ。能面が、俺の顔にぴったりと張り付いている。いや、俺の顔は、その能面の奥にすっぽりと隠れてしまって、まるで存在しないかのように、透明になってしまっている。能面の表情にならぶ自分の顔が見えない、どころじゃない。俺の顔は、能面そのものになってしまったのか?
「おいおい、冗談だろ……」
声が震えた。こんな時でも、俺の顔はミラーに映らねえ。どうせ能面みてえな顔しかしてねえんだ。だが、まさか本当に能面が張り付いてるなんてな。身体の奥底から、冷たい何かが這い上がってくる。この、じっとりとした不快感。全身が鉛のように重い。こんなところで車を停めたらどうなる、なんて考える余裕もないまま、俺は無意識にブレーキを踏み、ハザードランプを点滅させていた。
ヘッドライトの光が、トンネルの壁に不規則な影を落とす。その影が、揺らめく光の中で、まるで生き物のように蠢いているように見えた。どこからか、微かな、しかし粘っこいような振動音が響いてくる。いや、それは俺の心臓の音か? それとも、エンジンの共鳴音か?
視線をミラーから外し、直接、壁の方に目を向けた。ヘッドライトの光が届く範囲で、壁に沿ってゆっくりと視線を動かす。すると、少し先の、壁の窪みに、何か白いものが立てかけられているのが見えた。トンネルの換気口の点検口の裏あたり、ちょうど配管の陰になっていて、車のライトの角度によっては見えにくい死角だ。それが、まるで俺を覗き込んでいるかのように、ぼんやりと白い顔をこちらに向けていた。
俺は車を降り、ゆっくりと、その白いものに近づいていった。一歩、また一歩。足音がトンネルに吸い込まれていく。心臓がうるさい。頼むから、何もありませんように。
そして、間近にそれを見た時、俺は思わず声を出して笑ってしまった。自嘲的な、情けない笑い声だった。
そこに立てかけられていたのは、使い古された、汚れた能面だった。木製だろうか、表面はざらつき、ところどころ煤けている。顔の表情は、どこまでも冷たく、無感情に見えた。
「ったく、なんだこれ……」
先日、このトンネルで点検工事があったな。その時、誰かがふざけて置いたのを忘れたのか? あるいは、近くの廃れた神社から、風に飛ばされてきたのか。なんにせよ、こいつのせいで俺は肝を冷やしたってわけだ。
能面を拾い上げ、車に戻る。冷たい、固い感触が手のひらに残った。シートに能面を放り投げ、再び運転席に座る。
まったく、俺も歳を取ったもんだ。こんなもんで心臓が縮み上がるとはな。疲れているせいか、頭のネジが一本外れているのかもしれない。
もう一度、バックミラーを見る。
能面は俺の隣のシートで、ただ虚ろな顔を晒している。そして、ミラーに映る俺の顔は、やはり、あいまいなままだ。能面の表情にならぶ自分の顔が見えない。能面がそこにあろうと、なかろうと、結局、俺の顔は能面みてえなもんなんだ。変わらねえよ。
疲れたため息をつき、アクセルを踏み込んだ。トンネルの出口から、かすかに光が差し込んでいる。そこに、俺の出口がある。
俺の顔に、うっすらと安堵の表情が浮かんだか、どうか。ミラーの奥では、今日もまた、能面のような顔が、ただ曖昧に霞んでいるだけだった。