
終電間際、湿った地下の空気が喉の奥にへばりつく。また、この時間か。今日も今日とて、デスクに貼り付いては薄汚れた数字と睨めっこ。もう、視神経が擦り切れてしまいそうだ。四十も半ばを過ぎれば、ガタが来るのは身体だけじゃない。頭の中も、どうにもこうにも、ねじが緩みっぱなしだ。
数日前から、妙な幻覚や幻聴に悩まされている。特にひどいのが、あのマネキンの動きだ。少しでも揺れると、もう駄目だ。意識がそっちに引っ張られて、頭の中がぐちゃぐちゃになる。会社のディスプレイを飾り付けていたあのマネキン、あれが風で揺れるたびに、俺は会議中に思考が停止して、部長に睨まれたもんだ。あれ以来、マネキンという単語を聞くだけで、胃の奥がむかむかする。勘弁してほしい。
ホームの薄汚れた壁に、ふと目が留まった。蛍光灯のくたびれた光が届かない、薄暗い一角だ。そこに、微かに光る点があった。一点、それも二つ。まるで、誰かの目が、こっちを覗いているかのように。
疲れた目には、壁のシミと影が重なって、それが人の顔のようにも見えた。パレイドリア、だったか。そんな小難しい言葉は、今の俺の頭には響かない。ただ、薄気味悪い、という原始的な感覚だけが残る。
遠くで、地下鉄の換気扇が低い唸りを上げている。ゴォォ、と、まるで地の底から響くような、重い音。その音に合わせて、壁の「目」が、カクン、と揺れたように見えた。途端に、その唸りが、ヒュー、ヒュー、と、誰かの息遣いのように聞こえ始める。肺が軋むような、苦しそうな呼吸だ。俺の背筋を冷たいものが這い上がった。
クソッ、またか。この視覚と聴覚の誤認。こんな疲労困憊の時に限って、こういう妙なものに遭遇する。ただでさえ、マネキンが少しでも動くと、もう一日中その残像が脳裏にちらついて、まともに仕事ができないんだ。あんな、ただのプラスチックの固まりに、俺の精神がここまで掻き乱されるなんて、情けないにも程がある。
その光る点が、また不気味に、ゆっくりと、左右に揺れ始めた。まるで、首を傾げているかのように。息遣いは、さらに荒くなったように聞こえる。ヒュー、ハァ、ヒュー。
目の錯覚だと、頭ではわかっているのに、身体は正直だ。一歩、また一歩と、無意識に後ずさっていた。壁の隙間から、何かが覗いている。そうとしか思えなかった。もう、視野にはあの微動する「瞳」しか映らない。背後から迫る重い空気に、心臓が握り潰されそうだ。あのマネキンの、あの虚ろな目が、また俺の頭を蝕もうとしているのか。冗談じゃない。
その時だ。
「お客様、お乗り換えですか?」
背後から、ごつん、とぶつかられた。同時に、アナウンスが響き渡る。最終電車がホームに滑り込んできたのだ。大勢の乗客が、我先にと電車に吸い込まれていく。俺もその波に押され、壁の「目」から視線を外さざるを得なかった。
電車に乗り込み、改めて先ほどの壁の一角を見た。
そこに「覗き穴」はなかった。
代わりにあったのは、工事用の仮設フェンスの隙間から、その頭部を覗かせている、一体のマネキンだった。おそらく、駅構内の広告ディスプレイの入れ替えか、近くの商業施設の改装で一時的に置かれたものが、資材の裏に隠れていたのだろう。薄暗い中で、その瞳の部分に塗られた夜光塗料が、微かに光を放っていた。そして、マネキンが不安定な場所に置かれていたため、電車の振動やホームを行き交う人々の微かな揺れで、その頭部がわずかに揺れていたのだ。
ああ、なんだ。そうか。
全身から、どっと力が抜けた。安堵と、途方もない疲労感。身体中の筋肉が、鉛のように重い。
また、くだらないものに怯えていたのか。しかも、よりにもよってマネキンに。
マネキンの動きに我を失う、というのは、もはや病気なのかもしれない。本当に、勘弁してほしい。
俺は、乾いた笑いを漏らした。地下鉄のホームに、こんな紛らわしいものを放置するなよ。
もう、何もかもが、どうでもよくなってきた。早く、この重い身体をベッドに沈めたい。そして、二度と、マネキンなんて見たくない。