
目が、痛い。目の奥から脳みそを直接引っ掻かれているような鈍痛が、ここ数日ずっと続いている。そのせいで、視界の隅には常にあの忌々しい絵画が浮かんでいる。薄汚れたキャンバスに、ぼんやりとだが確かに、生気のない目をした女の顔が描かれている。油絵特有の厚ぼったい筆致で、まるで腐りかけた肉のようだ。ああ、まただ。こんな山奥の埃っぽい民家で、夜中に一人でいるというのに、この幻覚だけは俺から離れてくれない。本当に気が滅入る。
ここは酷い場所だった。山奥にある、絵画収集家の故人が残した民家だという。古びた木造家屋は、軋む音とカビの匂い、そして埃で満ちていた。壁にかけられた絵画も、どれもこれも煤けて、ひび割れて、絵の具が剥がれかかっている。俺はそういう“味”が好きで、わざわざこんな場所まで来たんだが、それにしてもだ。この家全体が、どこか深いところで息を潜めているような、妙な重苦しさがあった。
目的の部屋は、家の中でも特に奥まった場所にあった。照明は心許ない裸電球が一つだけ。薄暗がりの中、俺は古い額縁を一つ一つ検分していた。指先が煤で汚れていくのも、もう慣れた。しかし、いくら目を凝らしても、期待していたような“掘り出し物”は見つからない。疲労と、この幻覚が視界を邪魔して、集中力も続かない。
その時だった。
遠くから、微かな音が聞こえてきた。最初は、この古びた家が風で軋む音かと思った。だが、どうも違う。もっと、規則的で、それでいて不規則な、妙な響きがあった。
「ジー……」
まるで、古い機械が呻いているような、低い振動音。壁の向こうから聞こえるそれは、壁板を通して俺の足元まで、微かに伝わってくるようだった。最初は遠く、次に少し近く。また遠く。まるで、何かが家の中をゆっくりと移動しているかのようだ。いや、違う。移動しているというより、その音が何かにぶつかったり、擦れたりして、響き方が変わっているような……。
胃のあたりが、ぞわっとした。汗が、背中を這う。
「なんだ、これ……」
思わず声に出したが、その声はひどく掠れて聞こえた。この家は、噂によれば持ち主が急逝した後、ずっと放置されていたという。だから、人がいるはずがない。なのに、この音はなんだ? まるで、壁の裏側で、誰かが何か重いものを引きずっているような。あるいは、巨大な虫が、その硬い甲羅を擦り合わせているような、生理的な不快感を伴う音だった。
心臓がドクドクと脈打ち、耳元で血の流れる音がする。目の奥の痛みが増して、あの女の顔が、さらに鮮明に視界に張り付いた。腐ったような肌の色、虚ろな目。ああ、いい加減にしろ! こんな時にまで俺を惑わせるな!
「ジーッ、カラカラ……」
音はまた少し大きくなった。まるで、俺のすぐ近くまで来たかのように。俺はゆっくりと、音のする方向へ顔を向けた。薄暗い部屋の奥、他の絵画や使い古された家具の陰に、何か巨大なものが隠れている。視線がそこに吸い寄せられる。
俺は息を殺して、一歩、また一歩と近寄った。
すると、音が一瞬、止まった。
シン、と静寂が訪れる。その一瞬の静けさが、逆に俺の心臓を鷲掴みにした。今度は、もっと近くで聞こえるだろうか。もっと、はっきりと。
そして、再び。
「ブーン……ゴロゴロ……」
今度は、まるで足元から響いてくるかのように、低い唸り声と、何かが不規則に回転しているような摩擦音が聞こえてきた。その音に呼応するように、目の前の絵画が、まるで生きているかのように見え始めた。
古い油絵だ。風景画のようだが、長年の埃と湿気で色褪せ、絵の具もひび割れている。だが、そのひび割れが、薄暗い裸電球の光と重なって、まるで人の顔に見えてくる。岩肌の陰影が、深い皺に。木の枝の絡まりが、伸ばされた不気味な指先に。そして、絵の中心に描かれた、ぼんやりとした湖面が、まるで生気のない目がこちらを見つめているように……。幻覚の女の顔が、この絵画と重なって、俺の視界を侵食する。吐き気がした。
「くそっ……」
俺は呼吸を整えようと、必死に胸を押さえた。喉が渇ききって、唾液を飲み込むのも辛い。体中が冷たい汗でべっとりとしていた。
その絵画は、部屋の奥、壁際に立てかけられた巨大な衝立の裏に、半ば隠れるようにして置かれていた。他の絵画や古い家具に囲まれて、見過ごしていたのだ。俺は震える手で衝立をずらし、その絵画を真正面から見据えた。
驚いた。それは想像以上に巨大なものだった。そして、その額縁は、ただの木製ではなかった。妙に分厚く、そして、その裏側には、何やら機械的な仕掛けが施されているのが、薄暗闇の中でうっすらと見えた。
俺は額縁の裏に回り込んだ。埃まみれの裏板には、小さな金属製のカバーが取り付けられていた。そのカバーの隙間から、問題の音が漏れている。
「ブーン……ゴロゴロ……」
それは、紛れもないモーターの唸り声と、軸がブレて何かを擦っているような摩擦音だった。俺は恐る恐る、スマホのライトで照らした。
額縁の裏には、掌サイズの小さなファンが取り付けられていた。長年の埃と油で真っ黒になり、軸は歪み、プラスチック製の羽根は一部が欠けていた。それが、ゆっくりと、不規則に回転しながら、あの不気味な音を立てていたのだ。そして、そのファンに繋がるように、細いコードが伸び、壁のコンセントに差し込まれているのが見えた。どうやら、この絵画は、風景描写をよりリアルにするために、額縁内に風を発生させる仕掛けが組み込まれていたらしい。それが長年の放置で故障し、こんな音を立てていた、と。
「なんだ、これ……」
俺は、崩れるようにその場にへたり込んだ。恐怖と、情けなさと、そして脱力感が、一気に体を襲った。心臓のバクバクは収まらないが、胃の不快感は少しだけ和らいだ。
まさか、あの不気味な唸り声の正体が、こんな、ただの故障したファンだったとは。埃と、薄暗闇と、そして俺自身の疲労と、あの忌々しい幻覚のせいで、こんな馬鹿げた勘違いをしていたなんて。
目の奥の女の顔は、まだそこにいる。薄汚れたキャンバスの女は、まるで俺の滑稽な姿を嘲笑っているかのようだ。ああ、本当に勘弁してくれ。早くこの幻覚から解放されて、ぐっすり眠りたい。こんな山奥まで来て、結局得たものは、故障したファンと、疲労困憊の体だけだった。最悪だ。本当に、最悪だ。