あの視線は幻か。深夜の独りカラオケ

全く、もう何時だと思ってるんだ。日付はとっくに変わってるだろうに、隣の部屋からはまだ若い連中の騒ぎ声が漏れてくる。こんな時間に、一体何の用事があるんだ。まさか、あのドアの隙間から、こっちのくたびれたジジイがまだ歌ってるのを覗いてやがるんじゃないだろうな。ああ、あの妙に冷たい視線が、壁の向こうから突き刺さるようだ。早く家に帰って、温かい風呂に浸かって、誰にも邪魔されずに眠りたい。この腰の鈍い痛みも、もう限界だ。

喉もガラガラだ。いくら水で潤しても、乾きがひかない。こんな深夜まで、一体何をやってるんだろうな、俺は。歌うのも、もう苦痛でしかない。画面の歌詞がぼやけて、目が霞む。老眼鏡をかける気力もない。この、全身を覆うような疲労感。それが、きっと隣の部屋から、あるいは廊下を歩く誰かから、嘲りの視線となって返ってきているような気がしてならない。

その時だった。耳障りな、低く短い振動音が、部屋の隅から聞こえてきた。ブチッ、とまではいかない、もっと電子的な、ノイズに近い音。スマホの通知音かと一瞬思ったが、ポケットのスマホは沈黙している。なんだ、今の音は? 鼓膜の奥で、まだ残響が不穏に揺れている。

そして、その直後だ。ひたひた、と床を這うような、膜一枚隔てたような軽い足音が聞こえる。まるで心臓の拍動にも似た、不規則なリズム。ドキドキ、ドキドキ。誰かが近づいてきているのか? こんな深夜に、一体誰が。忘れ物を取りに来たスタッフか? いや、そんな音じゃない。もっと、低い。動物の足音…? いやいや、まさか。こんなカラオケボックスに、何がいるってんだ。

しかし、足音は確実に近づいてくる。俺は思わず歌うのをやめ、マイクを握ったまま硬直した。全身の毛が逆立つような感覚。ただでさえ、隣の部屋の若者の視線が気になって仕方ないのに、今度はこんな得体のしれないものまで。俺の体はもう、疲労困憊で、こんな刺激に耐えられる状態じゃない。胃がもたれて、吐き気がする。

ふと、部屋の奥の、壁に立てかけられた古いスピーカーの表面に、かすかな光が反射して、それがまるで文字のように見えた。薄汚れた壁のシミと、カラオケ画面の残光が重なって、目に焼き付いた残像が、壁の汚れに意味を与えたかのように。まるで、何かのメッセージが、そこに浮かび上がったように見えたんだ。

「何かしら怪奇現象が起こっている」そう確信した。疲れ果てた頭は、もう正常な判断をすることを拒否していた。心臓がドクドクと不規則に脈打ち、全身から冷や汗が吹き出す。隣の部屋からの視線は、もうどうでもよくなっていた。目の前の、この怪現象から逃げ出さなければ。

いよいよ落ち着かなくなった俺は、腰の痛みを無視して立ち上がり、恐る恐る部屋を見渡した。そして、見つけた。

ソファの裏の、埃が積もった薄暗い隙間。そこから、きょとんとした顔でこちらを見上げている、小さな猫がいた。

なんだ、猫か。

その瞬間、全身の力が抜けて、俺はソファにへたり込んだ。疲労で膝がガクガク震える。

「あら、ごめんなさいね、お客様。うちのミーコが、またこんなところに…」

背後から、ひそやかな声が聞こえた。振り返ると、若い女性スタッフが、申し訳なさそうな顔で立っていた。手には清掃道具が握られている。「深夜の清掃作業中です、お客様。お邪魔してすみません。この子は、どうしても付いてきちゃって…」

そう言って、彼女は猫を抱き上げた。その時、彼女のスマホから「ニャー」という、やけに生々しい猫の鳴き声が聞こえた。「あ、すみません。これ、うちのミーコが寂しがるんで、鳴き声アプリを鳴らしてたんです。音量を下げ忘れてましたね」

鳴き声アプリ…! さっきの、耳障りな電子ノイズと、ひたひたと床を這うような足音は、この猫とアプリの音だったのか。そして、あの壁の文字に見えたのは、単なるシミと光のいたずら。疲れた目に、見慣れないものが重なって、勝手に意味を付けていたんだ。

俺は、脱力しながら、思わず笑ってしまった。同時に、どっと押し寄せる疲労感。そして、また、あの嫌な感覚が蘇ってきた。ああ、まただ。スタッフの若い女が、俺をじろじろ見ている。こんな深夜までカラオケで一人。きっと、白い目で見てるに違いない。はぁ、もう本当に勘弁してくれ。早く家に帰って、誰の視線も感じない場所で、ただ、眠りたい。