
深夜2時半。ここは、ビルの奥まった階下にある階段の踊り場。ただでさえ薄暗いのに、今は非常灯すら点いてない。真っ暗なコンクリートの壁に囲まれて、息が詰まる。吐きそうだ。いや、もう吐いてる。胃液が喉までせり上がってきて、口の中が酸っぱい。さっき食べたコンビニのおにぎりが、もう胃の中でぐちゃぐちゃになってるのがわかる。なんでこんな時間に、こんな場所にいるんだろう。もう、本当に無理。
この閉塞感が、本当に耐えられない。窓なんてどこにもないし、天井も低い。まるで、生きたままコンクリートの箱に閉じ込められたみたいだ。体が鉛みたいに重くて、でも気持ち悪さのせいでじっとしていられない。背中を壁につけて、ずるずるとしゃがみ込んだ。膝を抱えて、頭を埋める。目を閉じても、この真っ暗な空間の圧迫感が消えない。むしろ、目をつぶることで、自分の内側にある吐き気と閉塞感だけが、ぐるぐる渦巻いているような気がする。
その時だ。鼻の奥に、何か変なものがまとわりついた。最初は、自分の胃から上がってきた臭いかと思った。吐き気が強いと、何でもかんでも気持ち悪い臭いに感じるから。でも、違う。これは、もっと生々しい、変な臭いだ。
「う、うぇ……」
思わず口元を押さえる。酸っぱい胃液の臭いに、ねっとりとした、甘ったるいような、でも腐敗したような、形容しがたい異臭が混ざり始めた。吐き気が、一気に悪化する。冷や汗が背中を伝って、鳥肌が立つ。これ、何? どこから?
目を見開いて、暗闇に目を凝らす。何も見えない。ただのコンクリートの壁と、上と下へ続く階段。どこにも、臭いの元になるようなものは見当たらない。なのに、臭いは確実に強くなっている。いや、吐き気のせいで、嗅覚が過敏になってるだけなのか? でも、そんなレベルじゃない。これは、はっきりと「異臭」だ。
まさか、ここ、誰も通らない場所だし……。変な想像が頭をよぎる。ダメだ、考えるな。吐き気で頭が回らないだけだ。そう自分に言い聞かせても、脳裏に浮かぶのは、あの、なんとも言えない、甘くて重い、鉄錆みたいな、肉が腐ったような臭い。ああ、もうダメだ。吐く。
「ごほっ、ごほっ……うっ」
胃液がまた上がってくる。喉が焼けるように熱い。その時、隣の部屋から、微かに「ブーン……」という低い振動音が聞こえてきた。壁の向こうだ。この踊り場の隣には、ずいぶん前から「テナント募集中」の張り紙が出たままの、廃墟みたいなオフィスがあったはず。そこから?
ブーン……ブーン……。
その振動音に、さらに「キィィィ……」という、どこか擦れるような、不規則なファンの異音が混じり始めた。それはまるで、古びた機械が無理やり動いているような、生命の終わりのような音。そして、その音に合わせて、異臭が、さらに、はっきりと、強烈に、鼻腔を襲ってきた。
ああ、もうダメだ。これは、完全に、あの臭いだ。テレビのドキュメンタリーで、事件現場の法医学者が言っていた、あの「死体の腐敗臭」ってやつだ。まさか、こんなビルの奥の踊り場に、そんなものが……? 吐き気がピークに達して、頭の中が真っ白になる。胃の中身が、胃液ごと全部ひっくり返りそうだ。
「うぇっ、オエエエエエ!」
もう、我慢できない。口から酸っぱい液体が溢れ出す。生理的な吐き気と、恐怖による吐き気が混ざり合って、全身が痙攣する。目を閉じても、あの腐敗臭が幻覚のように鼻の奥に焼き付いて離れない。
その時、隣の部屋のドアの下の隙間から、細い光の筋が漏れているのが見えた。あれ? 廃墟のオフィスのはずなのに? 誰かいるのか?
恐怖と好奇心、そして何より吐き気で朦朧とした意識のまま、私はのろのろと立ち上がった。全身が震えている。胃の奥から込み上げる不快感に、もうこれ以上は耐えられない。
ドアの隙間に顔を近づけ、そっと覗き込む。
薄暗い部屋の奥には、黒い金属製の大きな箱がいくつも積み重ねられていた。サーバーラックだ。そこから、熱い風が吹き出している。そして、一番手前のラックの側面、換気口のあたりから、あの「ブーン……キィィィ……」という異音と共に、熱気を帯びた空気が、外へと漏れ出てきているのが見えた。
「うわっ……」
思わず声が出た。その熱風と、その中に混じる機械油のような、プラスチックが焼けたような、そして埃っぽい、なんとも言えない生臭いような臭いが、直接、私の顔に当たった。この臭いだ! これが、あの腐敗臭の正体だったのか!
ちょうどその時、ドアの向こうから、人の声が聞こえた。
「あ、すみませんね、こんな時間に。急ぎのメンテナンスでして、このサーバーがちょっと調子悪くて……。電源ユニットのファンがイカれちゃってて、熱暴走寸前だったんですよ。このビル、夜間でも電力供給は止まらないんで、助かりますけどね。」
声の主は、作業着を着た男性だった。手には工具箱を持っている。私の顔を見て、少し驚いた様子で言った。
「あれ、大丈夫ですか? 顔色悪いですよ。もしかして、この熱と臭いで気分悪くなっちゃいました? 申し訳ない。すぐ直しますから。」
私はその男性の言葉に、全身の力が抜けるのを感じた。
脱力。そして、安堵。
「死体の腐敗臭」と「密室の閉塞感」に胃がひっくり返りそうになっていた私の恐怖は、あっけなく、深夜のサーバーメンテナンスという、極めて現実的な理由で霧散した。
しかし、胃のむかつきは消えない。むしろ、安心した途端に、どっと疲労が押し寄せてきた。
「はは……」
乾いた笑いが漏れる。
死体じゃなかった。よかった。でも、この吐き気は、どうしてくれるんだろう。この臭い、もうトラウマになりそうだ。
もう、本当に、早くここから出たい。この、コンクリートの箱みたいな場所から。
私は、まだ胃の奥でぐるぐる渦巻く不快感を抱えながら、ゆっくりと、来た道を戻り始めた。足元がふらつく。まだ、少しだけ、あの変な臭いが鼻の奥に残っているような気がした。気のせいだと、思いたい。