壁の底から這い出る、甘い悪意

夜明け前のベランダは、まだひんやりと湿気を帯びていた。タイル張りの床が素足に吸い付くような冷たさで、それがまた、私の鈍い腰の痛みに拍車をかける。もう、何日まともに眠れていないだろう。瞼の裏には常に、あの微かな振動音が貼り付いている。数日前から、このアパートの奥底、壁の向こうから、まるで何かが蠢くような、低く、しかし確実に伝わってくる振動。耳を澄まさなくても、もう皮膚で感じるようになってしまっていた。

ああ、まただ。あの感覚。頭の奥が痺れるような、甘く、そして悍ましいあの麻痺感。過去の記憶が、濁った水のように胃の腑からせり上がってくる。あの震え。あの音。あの匂い。背筋がゾワゾワと泡立つ。昔、まだ若かった頃、あの、あの場所で感じた絶望が、この振動音に乗って、また私の神経を引っ掻き回す。恍惚だった。恐怖の淵で、全てがどうでもよくなる、あの歪んだ陶酔。私は今、まさにその途上にいる。足の裏から伝わる冷気が、内側から燃えるような熱さと混じり合い、全身を震わせる。

深夜、暗闇が全てを飲み込む時間になると、あの振動は一層、その存在を主張し始める。ベランダの手すりに寄りかかり、耳を壁に近づける。すると、まるで骨伝導のように、不気味な震えが頭蓋の奥まで響く。微か、と表現するにはあまりにも存在感がありすぎる。それは、単なる「音」ではない。私の内臓を直接揺さぶるような、生物的な、そして悪意に満ちた「動き」だ。

ああ、くそ、まただ。この吐き気。胃酸が食道を逆流してくるような不快感。更年期のせいか、最近は特に胃が荒れやすい。こんな時に、こんな振動音まで加わって、私の体はもうボロボロだ。目の奥がズキズキと痛み、頭の芯が常に重い。この振動は、きっとあの時の、あの忌まわしい記憶と繋がっている。壁の裏には、何かがいる。何か、蠢く、不浄なものが。私の過去を呼び覚ますために、そこで、ひっそりと、しかし確実に、存在を主張している。

恐怖は、もはや私にとって、一種の快感にすらなりつつあった。呼吸は浅く、胸が締め付けられるように苦しいのに、この全身を駆け巡る興奮は止められない。壁の裏にいる「それ」が、私を呼んでいる。私の全てを奪い去った過去の亡霊が、この壁の向こうで、また私を地獄へ引きずり込もうとしている。ああ、その震えが、私の肌を、骨を、魂を撫でる。このまま、この振動に身を任せてしまえば、全てから解放されるような、甘美な誘惑。目の前がチカチカと点滅し、現実と幻覚の境が曖昧になる。

一晩中、私はその恐怖に囚われていた。夜が明けても、私はベランダから離れられない。あの振動の正体を探し求めて、何度も、何度も、壁や床に耳を押し当てた。だが、太陽が昇り、街の喧騒が戻ると、あの音はぱたりと止む。昼間は、まるで何事もなかったかのように、ただの静かなベランダに戻るのだ。それがまた、私の精神を深く蝕んだ。昼間は隠れて、夜になると現れる。まるで幽霊だ。

もう、考えるのも疲れた。この身体の節々の痛みも、頭痛も、胃の不快感も、全てはあの振動のせいだ。もうたくさんだ。
諦めにも似た虚脱感に襲われながら、私はもう一度、ベランダの手すりの隙間に目を凝らした。隣家との境界にある、普段は気にしないような、薄暗い、狭い隙間。そこから、妙な光が反射して見えた。最初は、ただのゴミか、誰かの忘れ物の破片かと思った。だが、よくよく目を凝らすと、それは、まるで何かの文字のように見えた。影と、埃と、薄暗さが重なって、歪んだ文字の羅列に見える。

「まさか……」

恐る恐る、手を伸ばし、その隙間を覗き込む。すると、奥の方に、二つの細長いものが向かい合うようにして置かれているのが見えた。薄暗い中でも、それは鈍く光を反射している。ああ、これは。これは、鏡だ。工事現場なんかで、見通しを良くするために使う、あの反射鏡。

さらに調査を進めると、すぐに状況が呑み込めた。隣の棟では、最近、配管の点検・交換作業が行われているらしい。深夜に、住民の生活に配慮して、共用通路の一部を借り切って、資材の搬入や準備作業を行っていたのだ。その際に、安全確認のために一時的に設置された反射鏡が、作業中断中に、このベランダの死角に置き忘れられていたらしい。そして、あの微かな振動音。それは、鏡から直接出ていたわけではなかった。深夜作業で、重い資材を動かす際に発生した、建物全体に伝わる微細な振動だったのだ。それが、ちょうどこの鏡が置かれた場所の近くで、最も強く感じられた。鏡が不安定に立てかけられていたため、その振動に合わせて、僅かにカタカタと揺れていたのだろう。

「鏡……たった、これっぽっちの…」

脱力感が、全身を襲う。喉の奥から、乾いた笑いが込み上げてきた。ヒュー、ヒューと、まるで壊れた笛のような声が漏れる。一晩中、いや、この数日間、私の心を蝕み、過去のトラウマを呼び覚まし、恍惚と恐怖の淵に突き落としたものが、まさか、たったこれしきの、忘れられた鏡と、隣家の作業音だったとは。

もう、笑うしかない。目尻から、生理的な涙がにじむ。それは安堵の涙なのか、それとも、ただの疲労と虚脱感からくるものなのか、自分でも分からない。全身から力が抜け、その場にへたり込んだ。腰がまた、ズキンと痛む。ああ、もう何もかもが嫌になる。だが、少なくとも、あの壁の向こうに、私を呪うものが潜んでいるわけではない。

私は、ぐったりと壁に寄りかかり、その歪んだ笑い声を響かせた。夜明けの空は、もうすっかり白んでいた。