
深夜、蛍光灯の眩しい光の下で、私は家計簿とにらめっこしていた。もう目尻の皺が深いのに、老眼鏡をかけても数字がかすむ。年金とパート代だけじゃ、この先どうなることやら。ため息をつくたび、肩の奥がズキリと痛む。湿布を貼っても、もう骨まで染み付いた凝りだろう。まったく、あの子さえもっとしっかりしてくれれば、こんな心配しなくて済むのに。もう五十も半ばを過ぎたというのに、未だに息子のことで頭がいっぱいだなんて、情けないったらありゃしない。
その時だった。耳の奥で、微かな、しかしやけに規則的な音が聞こえた。「カチッ、カチッ」。
最初は気のせいかと思った。疲れすぎて、耳鳴りでもしてるんだろうと。でも、目を閉じてみても、耳を澄ましても、その音は消えない。なんだか、遠くで秒針が動いているような。いや、うちにはこんなに大きな音を出す時計なんてないはずだ。壁掛け時計は電池が切れかけで、とっくに止まってるし、置時計だってそんな音はしない。
「カチッ、カチッ」。
音はだんだん、はっきりと私の意識を掴んで離さなくなった。心臓の鼓動に合わせて鳴っているのかと思うほど、不気味に、しつこく。
何なのこれ。もうこんな時間だっていうのに。
私は重い腰を上げ、音の出どころを探して家の中をうろつき始めた。フローリングの冷たさが足裏にじんじんと染みる。リビング、廊下、階段。どこもかしこもシンとしていて、私の荒い息遣いだけが響く。膝が軋む。股関節が痛む。老いるって、なんでこんなに不愉快なんだろう。
「一体何なのよ、この音。これも、あの子のせいなの?」
頭の中で、息子への不満がぐちゃぐちゃに渦を巻く。あの子が部屋を片付けないから、何か変なものが転がってるんじゃないか。あの子がろくに連絡も寄越さないから、こんな不安な気持ちになるんじゃないか。
音は、どうやら屋上から響いているようだった。ベランダに出て、顔を上げると、夜空に浮かぶ屋上のフェンスが、不気味な影を落としている。風がびゅうびゅうと吹き荒れていて、そのせいで音源が特定しづらい。フェンスの隙間から見える隣家の壁に、影とシミが重なって、まるで歪んだ文字か、変な数字の羅列のように見えた。ぞわりと背筋が凍る。何かの警告?まさか。私がこんな、こんな…碌でもない人生を送っていることへの、天罰かしら。
結局、その夜は一睡もできなかった。布団に入っても、「カチッ、カチッ」という音が頭の奥で鳴り止まない。胃がキリキリと痛む。吐き気がする。ネットで「深夜 カチカチ音 屋上」なんて検索してみたけれど、出てくるのは怪談ばかりで、ちっとも役に立たない。余計に不安になるだけだった。一体何なのよ。こんな目に遭うなんて。これも全部、息子がだらしないから私がこんなに神経質になって、些細な音にも怯えるようになったんじゃないか。あの子がちゃんとした仕事に就いて、結婚でもしてくれれば、私はこんな夜中に一人で震えることもないのに。
それから数日、音は続いた。屋上には近づかないようにしていたけれど、風の強い日には、リビングまで遠慮なく響いてくる。すっかり胃を壊し、食欲もなくなった。顔色も悪くなっただろう。鏡を見るのも嫌になった。
ある日の午後、また風が強く吹き荒れた。洗濯物が飛ばされそうになっていたので、仕方なく重い足取りで屋上へ上がった。
「カチッ、カチッ」
その音は、いつものように響いていた。でも、今日はやけにはっきり聞こえる。風が音を運んでくる、というよりは、すぐ近くで鳴っているような。洗濯物を回収しながら、フェンス際に目をやった。どこから聞こえるんだろう。
ふと、フェンスの隙間から、植木鉢の陰に、何か黒い長方形のものが転がっているのが見えた。普段は全く気にも留めないような死角。覗き込むと、それはまさか、息子の電気シェーバーだった。
ああ、これだったのか。
手に取ってみると、まだ微かに震えている。電池が切れかかっているのか、それとも風でスイッチがON/OFFを繰り返していたのか。いずれにせよ、あの不気味な音の正体は、こんな、こんなものだったなんて。
「全く、あの子ったら!」
怒りがこみ上げてきた。先日、屋上で作業を終えた後、剃り残した髭を剃ろうとして、フェンスの上に置きっぱなしにしたまま忘れていったのだと、その時になって思い出した。どうしてこんなところに置いていくんだ。どうして私にこんな迷惑をかけるんだ。
安堵と、脱力感と、そしてまた、息子への言いようのない苛立ちが、私の疲れた身体を包み込んだ。
全く、どこまで私に心配と迷惑をかけたら気が済むのよ。私の人生は、いつになったら、あの子から解放されるんだろう。屋上を吹き抜ける風が、私の頬を冷たく撫でていった。