
はぁ、まただ。もう、本当に勘弁してくれ。この時間まで残業なんて、私の人生、一体どこで間違ったんだろう。ずしりと重いショルダーバッグが肩に食い込んで、鈍い痛みが神経を這い上がってくる。家に帰ったら、またあのPCの様子を見なきゃいけない。あの黒い筐体、光るファン。奴が少しでも変な音を立てようものなら、私の心臓はキューっと締め付けられる。ゲーミングPCの不具合焦燥症、なんて診断されたところで、この胸のざわめきが収まるわけじゃない。むしろ悪化の一途を辿ってる。
もう日付も変わろうかという深夜。人気のないトンネルは、ひんやりと湿った空気を纏っていた。街灯の光も届かず、奥へ進むほど闇が深まる。くぐもったカビの匂いが鼻腔を刺激して、気分が悪い。胃のあたりが、ムカムカする。これもきっと、あのPCのせいだ。夜中に何度も目が覚めて、耳を澄ませてしまうから、まともに眠れてない。
その時だった。
ド、ドン……ド、ドン……。
トンネルの奥から、低く、重い振動が響いてきた。地面を這うような、壁を伝うような音。一瞬、心臓が跳ね上がった。これは何だ?まるで、誰かがゆっくりと、それでいてずっしりとした足取りで歩いているような、そんな重みのある音だった。いや、まさか。こんな時間に、こんな場所で。
「……気のせい、気のせいよ」
震える声で呟いてみたけれど、音は止まない。むしろ、僅かに大きくなっている気がする。ド、ドン……ド、ドン……。この振動は、まるで私のゲーミングPCが、床を伝って発する重低音のファンの唸りに似ている。あの、グラフィックボードの冷却ファンが唸り始める時の、あの底から響くような不快な音。また、故障の予兆か?家に帰ったら、あのPCもこんな音を出し始めるんじゃないか?私の頭はもう、そればかりで一杯になる。吐き気がする。
一歩、また一歩と進むたびに、音はさらに明確になっていく。ド、ドン、ガリ……ド、ドン、ガリ……。足音のような振動音に混じって、金属が擦れるような、あるいは何か内部でコイルが鳴くような、キィィンという甲高い電子音が響き始めた。何かが壊れる音?いや、違う。これは、まるで、PCのファンが軸を叩いているような、あるいは電源ユニットから不気味なコイル鳴きがしているような…そんな、嫌な、嫌な音だ。
一体、何なんだ。誰かがトンネルの奥で、何かを…何かを弄っているのか?暗闇の奥、微かに青白い光が見えた気がした。ゆらゆらと揺れる、不気味な光。あれは、まさか。屋根裏から漏れる光、なんて脚本の台詞じゃないんだから。あれは、まさか誰かの懐中電灯か?いや、違う。もっと、均一な、人工的な光だ。青白い……青白い光……。
「……いやだ、もう、やめてくれ」
全身の産毛が逆立つ。この頭痛は、きっとPCの不具合焦燥症のせいだ。胃のむかつきも。こんな時に限って、私の身体は正直すぎる。あの光、あの音。まさか、あの青白い光は…モニターの光?こんなところで、誰かがPCをいじってる?いや、そんな馬鹿な。でも、この音は間違いなく、私の知っている『あの音』だ。
足がすくむ。逃げたい。今すぐこの場を離れて、温かいお風呂に浸かって、全部忘れてしまいたい。でも、この音の正体が分からないまま、家に帰って、私のPCが全く同じ音を立て始めたらどうする?私はその恐怖に耐えられない。確かめなければ。この音の元を。
震える足で、一歩ずつ、音と光の元へと近づいていく。トンネルの壁に張り付くように、ゆっくりと。すると、暗闇の奥、壁の窪みに寄り添うようにして置かれた、黒い塊が見えてきた。その塊の表面から、青白い光が漏れている。そして、あの重低音の振動と、甲高い電子音。
「……うそ……」
それは、ゲーミングPCだった。
最新型の、ごつい筐体。冷却ファンが唸りを上げ、RGBライティングが不気味に青白く光っている。モニターは真っ黒で、電源が入っているだけ。なぜ、こんなトンネルの奥に。頭が真っ白になった。安堵と、絶望。また、PCだ。また、PCのせいだ。
その時、背後から声をかけられた。
「お客様、そちらは触らないでください」
心臓が飛び跳ねた。振り返ると、疲れた顔の若い男性が立っていた。彼は「24時間営業のゲームカフェ」と書かれたロゴ入りのジャンパーを着ている。
「あ、あの……これは、一体……」
声が裏返る。
「すみません、こんな場所で。実は、この先のゲームカフェで故障したマシンなんです。運び出す途中で、あまりにも異音が酷いんで、一時的にこちらで電源を入れて最終確認していたんです。お客さんがいらっしゃるとは思わなくて。電源はうちの延長コードで取ってます」
男性は申し訳なさそうに頭を下げた。彼の足元には、トンネルの壁沿いに伸びるオレンジ色の延長コードが、薄暗闇に溶け込むように繋がっている。なるほど、だから電源が取れていたのか。
「……そうですか……」
私は力なく呟いた。安堵。そして、脱力感。また、ゲーミングPC。私の不調の原因は、いつもゲーミングPCだ。トンネルの奥で響く重低音も、不気味なコイル鳴きも、青白い光も、全てはあの憎らしいけれど手放せない、黒い塊のせいだった。
「ゲーミングPCって、本当に…怖いですね」
そう口にすると、男性は苦笑いした。私の肩から、どっと力が抜ける。もう、疲れた。家に帰って、あのPCをまた確認しなきゃいけない。そして、きっとまた、あの音に怯えて眠れない夜を過ごすのだろう。胃のむかつきが、さらに強くなった。