鏡に映らぬ私。その隣に、影。

鏡の向こうに見える影

身体が鉛のように重い。ここ数日、まともに寝てない。いや、寝たくても寝られない。布団に入っても、瞼の裏にあの光景が焼き付いて離れないんだ。
「自分が映らない」鏡の光景が。

昨日、耐えきれなくなってこのカプセルホテルに転がり込んだ。狭い。本当に狭い。棺桶みたいだ。でも、こんな場所でさえ、俺は鏡から逃れられない。
チェックインカウンターの奥、薄暗い廊下の突き当たり、エレベーターの扉。どこを見ても、そこに鏡がある。そして、そのどれもが俺を映し出さない。いや、正確には、俺の輪郭はぼんやりと映るんだ。でも、そこにいるはずの俺の顔がない。空っぽの、ただの影。そんな恐怖が数日前から俺を蝕んでいる。

カプセルの中は、安っぽいプラスチックと、どこかの誰かの体臭が混じったような、むわっとした空気が充満している。換気扇がジーッと低い音を立てて回っているが、ちっとも空気が入れ替わる気がしない。むしろ、その機械音が頭の奥でこだまして、頭痛がひどくなる。
俺はカプセルの中に潜り込むと、用意された薄っぺらい鏡を恐る恐る覗き込んだ。

やっぱりだ。
そこにいるのは、青白い顔色をした、やつれた男の輪郭。俺の、はずなんだが。
そこには、俺の顔がない。目も鼻も口も、何もかもがのっぺらぼうに消えている。
「う、うそだろ……」
震える指で鏡に触れる。冷たい。確かにそこにある。なのに、俺だけがそこに存在しない。
俺は自分の顔を確かめるように、頬を抓る。痛い。ちゃんと、俺の肉がある。
なのに、鏡の中の俺には、何もない。

その瞬間、俺の視界の端に、何かが動いた。
「……ん?」
鏡の中、俺ののっぺらぼうの輪郭のすぐ隣に、ぼんやりとした、黒い影。
それは、まるで誰かがそこに立っているかのように、うっすらと、しかし確かにそこに存在していた。
形ははっきりしない。人のようでもあるし、もっと無機質な、ねじくれた何かのようでもある。
光源が見当たらないのに、その影はまるでそこに実体があるかのように、鏡の中に浮かび上がっている。
「誰だ……? いや、誰かなんてレベルじゃない。これは何だ?」
心臓がドクドクと、耳の奥でうるさいほどに鳴り響く。
自分が映らないという恐怖に加えて、今度は自分以外の、正体不明の影まで現れた。
頭がぐちゃぐちゃになる。これは現実か? 幻覚か?
いや、幻覚だとしても、こんなにリアルに、ここまで執拗に、俺を追い詰めるなんてあり得るのか?
俺は、この数日間、飯も喉を通らず、ただひたすらに鏡の恐怖に囚われている。身体はもう限界だ。吐き気がする。

狭いカプセルの中では、息が詰まる。俺は半ば這うようにして、カプセルから這い出した。
廊下は薄暗く、誰もいない。人工的な非常灯の明かりが、床に不気味な影を落としている。
フロントへ行こう。誰かいるはずだ。
フラフラと歩き出す。廊下の突き当たりに、また鏡があった。
逃げられない。
俺は恐る恐るその鏡を覗き込んだ。

そこには、やはり俺の顔のない姿が映っている。そして、その隣に、あの黒い影が。
カプセルの時よりも、少し大きくなっているような気がする。
はっきりとしない輪郭が、じっと俺を見つめているような気がした。
「俺は、俺は一体どうなっちまったんだ……」
全身から脂汗が吹き出す。喉の奥が乾いて、カラカラだ。
この数日、自分が映らない鏡を見るたびに、俺は自分が人間じゃなくなるような気がしていた。
心臓がバクバクいって、肺が引き裂かれるように苦しい。
息を吸っても、吸っても、酸素が足りない。このまま窒息して死ぬんじゃないか。
もしかしたら、もう俺は死んでるのかもしれない。だから鏡に映らないんだ。
いや、でも、この影は何だ? 俺を地獄に引きずり込もうとしているのか?
吐きそうだ。胃の中がぐちゃぐちゃに捩れるような感覚。
「こんなの、もう無理だ……」
俺は膝から崩れ落ちそうになった。

どれくらい時間が経っただろうか。
夜が明けたらしい。外の空気が吸いたくて、俺はロビーへと向かった。
ロビーにはまだ誰もいない。清掃員らしき人も見当たらない。
自動ドアの向こうから、冷たい朝の空気が流れ込んでくる。
その自動ドアのすぐ脇、ホテルの壁に沿って、何かが立てかけられているのが見えた。
薄暗いロビーの照明と、外から差し込む朝焼けの光が混じり合って、その影が奇妙な形に伸びている。

俺は、その影に、見覚えがあった。
「あれ……?」
そこにあったのは、一台の自転車だった。
泥だらけのタイヤ。サビついたチェーン。荷台には工具箱が括り付けられていて、反射板が太陽の光を鈍く跳ね返している。
壁際に立てかけられていたせいで、ロビーの入り口からはほとんど見えない死角になっていた。
ちょうど、俺が昨晩いたカプセル部屋の真下あたり。
俺の部屋の鏡に映っていた影は、きっとこれだったんだ。

その時、自動ドアが開き、作業着姿の男が二人、入ってきた。
「おーい、ここに置きっぱなしにしてた自転車、まだあったか?」
「ああ、あったあった。親方が『深夜のうちに運び込んどけ』って言うからよ、昨日のうちに運んできたはいいが、置き場所なくてここに入れといたんだ。まさか、そのまま朝まで忘れちまうとはな」
「ったく、早く工事現場に持っていかねえと、また怒られるぞ」
彼らはそう言いながら、自転車を運び出していく。

俺は、その光景を呆然と見つめていた。
放置された自転車。
壁際という死角。
薄暗い照明と、ガラスに反射する光。

俺の脳裏で、昨晩の恐怖がフラッシュバックする。
あの、のっぺらぼうの俺。その隣に浮かび上がった、正体不明の影。
あれは、この自転車が、鏡に映り込んだものだったのか。
俺の顔が映っていなかったのは……一体。

全身から、力が抜けていく。
緊張の糸がプツンと切れたような感覚。
へなへなと、その場に座り込んでしまった。
「なんだ、なんだよ……」
数日間の不眠、食欲不振、そして何よりも「自分が映らない」という執拗な恐怖が、俺の判断力を麻痺させていた。
ただの自転車の影を、得体のしれない怪物だと錯覚した。
でも、俺の顔が映らなかったのは、どう説明がつく?
あののっぺらぼうの俺は?
俺は、まだ、鏡を見るのが怖い。
この脱力感は、本当に解放されたものなのか。
それとも、また別の、新たな恐怖の始まりなのか……。
俺は、震える手で、自分の顔を触る。
確かにある。
それでも、俺はまだ、鏡に映る自分を、素直に信じることができないでいる。
胃のムカつきは、まだ治まらない。
この数日の疲労と、この先も続くかもしれない鏡への恐怖が、俺の身体に重くのしかかっていた。
もう一度、鏡を、見ろと?
いやだ。
俺は、もうしばらく、鏡のない世界で生きていきたい。
そうでないと、本当に、俺は俺じゃなくなってしまう。
この身体的苦痛も、精神的な疲労も、もう限界だ。
それでも、あののっぺらぼうの影が、俺の視界の端でちらつく。