
いや、もう、なんで私、こんなところにいるんだろう。夜中の廃病院。本当に、どうかしてる。数日前に耳にした、この場所から聞こえるって噂の「不気味な音」に、どうしても惹かれちゃったんだ。好奇心ってやつは、本当にろくでもない。今はもう、好奇心なんてすっかり冷え切って、体の芯まで冷えきった、湿った空気だけが私を包んでる。ここに着いた瞬間から、もうずっと、恐怖で息をするのも忘れそうな感じ。いや、忘れそうなんじゃなくて、もうほとんど忘れてる。肺がまともに膨らまない。
廊下の一歩一歩が、自分の心臓の音みたいに響いて、耳鳴りがキーンと脳みそを締め付ける。壁には、何か不定形なシミが広がってて、それが剥がれかけた壁紙の隙間から、ドロドロと滲み出してるみたいに見える。カビと埃と、古い消毒液の、なんとも言えない混じり合った匂いが、鼻腔の奥にへばりついて離れない。気持ち悪い。
その時だった。
ずいぶん遠く、建物の奥底、それとも床下からだろうか。低く、重々しい、まるで何かがずるずると大地を引きずるような音が、微かに聞こえてきた。ゴォォ……という鈍い響き。初めは自分の耳鳴りかと思ったんだけど、違う。これは、明らかに外から、この建物自体から発されている音だ。耳を澄ますと、その音が、私の立っている足元、床の真下から這い上がってくるように感じられた。重い。とにかく重い。まるで地面が震えてるみたいに、足の裏にまでその振動が伝わってくるような錯覚。
何も見えない。この薄暗い廊下には、割れた窓から差し込む僅かな月明かりと、自分のスマホのライトの細い光筋しかない。その光の中には、ただ埃が舞い上がってるだけで、音の正体なんてどこにも見当たらない。
心臓が、ドク、ドク、ドク、って、耳元で鳴ってるみたいにうるさい。喉の奥がカラカラに乾いて、唾液を飲み込むのも一苦労。胃のあたりがキューッと締め付けられるような不快感。全身に冷や汗が吹き出して、背中をぞわぞわと伝っていく。本当に、恐怖で息をするのも忘れそう。いや、もう完全に忘れてる。息を吸い込んでも、肺の先まで空気が届かないみたいに苦しい。酸欠で頭がぼーっとする。このまま意識が遠のいたら、それはそれで楽なのかもしれない、なんて、一瞬だけ馬鹿なことを考えた。
音が一瞬、ピタッと止まった。
その静寂が、また恐ろしい。耳が痛くなるほどの静けさ。心臓の音だけが、こんなにも大きく響くなんて、普段は気づかないことだ。そして、次の瞬間。
ゴォォォ……。
今度は、さっきよりもずっと近く、ずっと強く、その音が響いてきた。まるで、すぐそこ、私の足元から、何かがゆっくりと、こちらへ向かってきているみたいに。床が本当に微かに震えている。気のせいじゃない。スマホのライトで足元を照らすと、埃っぽい床の上に、何か細い、けれど不定形の影が、ゆらゆらと蠢いているように見えた。光の加減?それとも、本当に何かが……?いやだ、見たくない、でも見なきゃ、という強迫観念。
震える手でスマホのライトを強く握りしめ、目を凝らした。埃とゴミが積もった床の隅、壁に寄りかかるように置かれた古い棚の陰に、何か黒いものが埋もれている。それが、この不気味な音の源なのか?ゆっくりと、本当にゆっくりと、一歩、また一歩と近づいていく。足が鉛みたいに重い。呼吸はもう、ほとんど止まってる。
しゃがみ込んで、スマホの明かりをその影に当てる。すると、埃まみれの床にべったりと張り付くように置かれていたのは、一枚の絵画だった。なんでこんなところに?
恐る恐る、指先でその表面に触れてみる。ざらりとした埃の感触。薄暗い廊下の、割れた窓から差し込む僅かな月明かりや、私のスマホの細い光に、絵画の表面が鈍く反射する。その絵には、異様に細い、まるで髪の毛みたいな線がびっしりと描かれていた。それが、この廃病院の微かな揺れや、光の加減によって、まるで絵の中の生き物が、今にも画面から這い出てくるかのように、ゆらゆらと蠢いているように見えたんだ。
ゴォォォ……という音は、相変わらずどこからか響いてくる。絵画自体が音を出しているわけじゃない。どうやらこの建物全体に響いている、遠くの街の地下鉄の振動か、それとも古びた配管を流れる水の音、あるいは風が隙間を抜ける音、それが、この絵画が置かれた床の窪みや、埃とゴミの堆積によって共鳴して、特別大きく、重々しく聞こえていたみたいだ。
「まさか、これが原因だったなんて……」
思わず、へなへなとその場に座り込んでしまった。全身の力が、一気に抜けていく。恐怖で固まっていた筋肉が、急に緩んで、ガクガクと震え出す。ああ、もう、本当に、恐怖で息をするのも忘れそうとか、そんなレベルじゃなかった。完全に息を止めてたから、酸欠で頭がガンガン痛い。
絵画、ねぇ。美術品の修復作業のために使われてた、この病院。その名残なんだって。そんなの、事前に調べてたら、こんな馬鹿な思いしなくて済んだのに。
ようやく、まともに呼吸ができるようになった。肺の奥まで、冷たい空気が染み渡る。安堵と脱力感で、全身がぐったりしてる。もういい。もう十分だ。
「これで、家路につこう」
誰もいない廃病院の廊下に、私の声だけが虚しく響いた。早く、温かい自分のベッドに潜り込みたい。もう二度と、こんなところには来ない。絶対に。