
夜中の二時。こんな時間に、まさかゴミ捨て場に立っているなんて。全く、馬鹿みたいだ。いつもならとっくに寝ている時間なのに、今日はどうにも気が立ってしまって、ベッドの中でゴロゴロするのも疲れた。もういいや、と半ば投げやりにゴミ袋を掴んで、冷たい廊下をツッカケで歩く。足の裏に伝わるヒヤッとした感触が、余計に胸の奥をざわつかせた。
マンションの裏手にあるゴミ捨て場は、深夜の闇に沈み込んで、いつも以上に不気味さを増していた。街灯の光も届かず、ただ数本ある蛍光灯が、生気のない白い光を投げかけている。生ゴミの腐敗した匂いと、プラスチックの混じったような、形容しがたい匂いが鼻腔を刺激する。ああ、嫌だ。こんな場所に来るのも、こんな時間に起きているのも、全部が嫌だ。
一歩、また一歩と近づくたびに、妙な音が聞こえてきた。最初は、ただの風の音かと思った。けれど、それは違う。低い、唸るような「ブーン」という音が、静寂を切り裂くように響いてくる。そして、それに混じって「ガタ、ガタガタ……」と、不規則に何かが震えるような音。
心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。途端に、全身の血の気が引いていくのが分かった。胃のあたりが、ギューッと締め付けられるような感覚。まただ。また、これだ。あの日の、あの、地獄のような音が、脳裏にこだまする。列車が、鉄骨が、軋む音。迫り来る振動。あの音と、そっくりだ。
「はぁ、はぁ……」
呼吸が浅くなる。冷たい汗が、ジワリと額に滲んだ。指先が、小刻みに震え始める。吐き気がする。もう、勘弁してほしい。いつまで、この苦しみが続くのだろう。もう五十年近く生きているというのに、あの日のことだけは、まるで昨日起こったことのように、鮮明に脳裏に焼き付いている。こんな、ゴミ捨て場で、まさか。
音は、徐々に大きくなっているように感じられた。いや、気のせいか。私の鼓動が、耳の中で嵐のように鳴り響いているだけなのかもしれない。それでも、あの「ガタガタ」という振動音は、確かに私の耳を打つ。まるで、目の前を、あの鉄の塊が通り過ぎようとしているかのように。
足元が、おぼつかない。それでも、音の正体を確かめなければ、この場を動くことすらできない。ゴミ袋を握りしめたまま、震える体で、恐る恐る周囲を見回した。
粗大ゴミの山が、黒い影となって視界を遮る。冷蔵庫、洗濯機、古びた棚。それらが、まるで、あの日の事故現場に残された、歪んだ鉄骨や瓦礫のように見えてくる。影が、人の形に見える。助けを求める、悲鳴を上げる人々の残像が、フラッシュバックする。ああ、気持ち悪い。もう、本当に、嫌だ。
ガタガタ、ブーン。音は、やはりそこから聞こえる。ゴミの山の奥。目を凝らすと、段ボールや、使い古されたビニールシートの隙間から、何かがちらついているのが見えた。
それは、絵だった。
無造作に立てかけられた、キャンバス。暗くてよく見えないけれど、妙に歪んだ線と、血のような赤や錆びた茶色が混じり合った、禍々しい色彩が、ぼんやりと浮かび上がっている。まるで、あの日の惨状を、そのまま切り取ったかのような絵だ。何故、こんな場所に。誰が、こんなものを。その絵が、さらに私の恐怖を煽り立てた。絵の向こうから、あの音が響いている。
もう、逃げられない。恐怖で足が縫い付けられたように動かない。全身の筋肉が、カチコチに固まっていく。喉がカラカラに渇いて、息をするのも苦しい。このまま、あの列車に轢かれてしまうのではないか。そんな、ありもしない恐怖に、体が勝手に反応する。
「うっ……」
吐き気を堪えながら、震える手で、ゴミ袋の隙間を押し広げた。粗大ゴミの裏。段ボールの陰。そこにある、清掃用の小さなコンセント。そのコンセントに、埃だらけの古いポータブルラジオが、繋がれていた。
ラジオは、ガタガタと震えながら、低い唸り音を立てている。どうやら、どこか故障しているらしい。電源が入ったまま、この真夜中に、不気味な音を撒き散らしていたのだ。
私は、何とか震える指先で、ラジオの電源プラグを引っこ抜いた。
ブツン、と、音はピタリと止まった。
途端に、ゴミ捨て場は、再び沈黙に包まれた。
数秒間、私はそこに立ち尽くしていた。冷たい夜風が、汗で濡れた肌を撫でていく。心臓の激しい鼓動だけが、まだ耳の奥で鳴り続けている。あれは、列車の音なんかじゃなかった。ただの、壊れたラジオの、異音。
安堵が、ドッと押し寄せる。同時に、自分の惨めさに、心底うんざりした。また、これだ。また、過去の亡霊に、こんなふうに翻弄されてしまった。こんなにも、私は弱い人間だったのか。
傍らには、あの不気味な絵画が、まだ立てかけられている。きっと、この粗大ゴミを回収に来た業者の誰かが、休憩中にでも描いていたのか、あるいは、どこかで拾ったものを一時的に置いていったのだろう。その絵は、まるで、今日の私の姿を嘲笑うかのように、薄暗い光の中で、不気味な存在感を放っていた。
私は、乾いた笑いを漏らした。ハハ、と声に出してみたが、それは情けないほどに虚ろで、哀れな響きだった。ゴミ袋をゴミ箱に放り込んで、私は、とぼとぼと、マンションの入り口へと引き返した。まだ、眠れそうになかった。