闇夜の廃病院、甘い線香と無言

深夜の廃病院、なんて柄じゃねえんだよ、俺は。もう三十も半ばに差し掛かろうってのに、何やってんだか。

深夜の軋みと線香の甘い匂い

廃病院の鉄扉は、錆びた蝶番が叫ぶような音を立てて開いた。湿った空気、埃とカビ、それに加えて何か……腐敗臭に近いような、甘ったるい匂いが鼻腔を突き刺す。友人の健太は「探検だ、探検!」なんてはしゃいでやがるが、俺の頭の中は別のことでいっぱいだった。

スマホが震える。ポケットの中で、小さく、しかし耳障りなバイブ音が響く。画面を見れば、また「非通知」。数日前から、こればっかりだ。自宅の電話にも、俺のスマホにも、ひたすら無言電話。家族が、妻と娘が、どうしてるのか、何があったのか、何もわからない。このままじゃ、胃に穴が開く。もう既にキリキリと締め付けられるような痛みが続いている。こんな時に廃病院だなんて、正気かよ。健太には「気分転換だ」と無理やり引っ張られてきたが、とんでもない。気分はさらに沈む一方だ。

懐中電灯の光が、剥がれかけた壁紙のシミを浮かび上がらせる。染み一つ一つが、何か醜悪な形に見えてくる。元は白い壁だったんだろうが、今は黄ばんで、あちこち黒ずんでる。俺の今の精神状態とそっくりだ。ボロボロで、汚れてて、どうしようもない。

「おい、ここ、電気まだ生きてんのか?」
健太が呟いた、その瞬間だった。

バツン!

乾いた、しかし重い音が響いて、視界が完全に闇に包まれた。懐中電灯は持っているが、思考が一瞬停止する。真っ暗闇。俺は思わず、持っていたスマホを握りしめた。これじゃ、無言電話がかかってきても、画面の光すら見えないじゃないか。何だよ、これ。停電?こんな廃墟で?

耳が、闇の中で研ぎ澄まされる。建物の軋む音、遠くで風が唸るような音、そして、どこからか、微かに何かが擦れるような、低い振動音が聞こえてくる。古びた配線がショートでもしたのか?それとも、老朽化したダクトの中で、何かが蠢いているのか?
「おい、健太!」
俺の声は、闇に吸い込まれるように消えた。こんな状況で、家族からの電話に出られなかったら、どうすればいい?あの無言電話は、一体何を伝えようとしているんだ?無事なのか?それとも、何か危険を知らせようとしてるのか?不安で、胃がまたキリキリと痛み出す。

その時、暗闇の奥、廊下の突き当たりに、チカッと、本当に微かな光が点った。すぐに消え、また、ゆらりと現れる。まるで、誰かがゆっくりと息を吐いているみたいに。
「あれ、何だ…?」
健太も気づいたらしい。声が震えている。
微かな光は、ゆらゆらと揺れながら、闇の中に不気味な影を落としている。それが、壁の染みや埃で覆われた棚の形と重なって、まるで何か蠢く生き物のように見えた。パレイドリアだ、きっとそう。そう言い聞かせても、心臓はドクドクと不規則に脈打つ。ああ、また無言電話だ。バイブが鳴ってる。この真っ暗闇で、誰がかけてきてるんだ?家族か?それとも、何か別の、もっと不気味な存在が?

光に近づくにつれて、鼻腔をくすぐる匂いが強くなった。線香だ。甘く、しかしどこかひんやりとした、死を思わせる匂い。廃病院特有の薬品臭と混ざり合って、吐き気がする。さっきから胃が痛くて、冷や汗が止まらない。
「幽霊か…?まさか、本当にいるのか?」
健太が震える声で呟く。俺も同じことを考えていた。この病院で、誰かの無念が、こうして光を灯しているのか。あの無言電話と、何か関係があるのか?家族に、何かあったのか?この廃病院で、何か不気味なものが、俺を呼んでいるのか?
光は、近づけば近づくほど、その姿をはっきりとさせる。それは、小さな、しかし力強い炎だった。ゆらゆらと、闇の中で瞬いている。

ついに、俺たちはその光の元にたどり着いた。
そこにあったのは、いくつものろうそくの炎だった。そしてその周りには、使いかけの線香、くたびれた供花が、床に直接置かれている。
「何だよ、これ…」
脱力感が、一気に全身を襲う。幽霊なんかじゃなかった。でも、これはこれで気味が悪い。誰が、こんな廃墟に、供え物なんてしてるんだ?
「…ったく、勘弁してくれよ」
健太が、呆れたようにため息をついた。
「隣の部屋、緊急で配管の漏水修理してるんだってさ。夜間じゃないと騒音が響くからって。で、作業員の人たちが、ここで安全祈願してんだってよ。仮設の祈り場として使ってるんだと」
健太が指さす先には、壁の向こうから、かすかに工具の音が聞こえる気がした。
なるほど、それで深夜作業か。仮設の祈り場。まさか、こんな廃病院の一角が、そんな理由で使われてたなんて。

俺は、ドッと座り込んだ。恐怖と、脱力感と、そして何より、家族からの無言電話への焦りが、ごちゃ混ぜになって胸を締め付ける。結局、何も解決してねえ。このどうしようもない不安は、消えちゃくれない。スマホを握りしめる。また、着信履歴に「非通知」の文字が一つ増えていた。胃が痛い。本当に、俺は何をやってるんだろう。こんな場所にいる場合じゃない。
早く、家に帰って、あの電話の真相を確かめなきゃ。そう思うと、また、体中が冷えていくのを感じた。### 深夜の軋みと線香の甘い匂い

廃病院の鉄扉は、錆びた蝶番が叫ぶような音を立てて開いた。湿った空気、埃とカビ、それに加えて何か……腐敗臭に近いような、甘ったるい匂いが鼻腔を突き刺す。友人の健太は「探検だ、探検!」なんてはしゃいでやがるが、俺の頭の中は別のことでいっぱいだった。もう三十も半ばに差し掛かろうってのに、何やってんだか。

スマホが震える。ポケットの中で、小さく、しかし耳障りなバイブ音が響く。画面を見れば、また「非通知」。数日前から、こればっかりだ。自宅の電話にも、俺のスマホにも、ひたすら無言電話。家族が、妻と娘が、どうしてるのか、何があったのか、何もわからない。このままじゃ、胃に穴が開く。もう既にキリキリと締め付けられるような痛みが続いている。こんな時に廃病院だなんて、正気かよ。健太には「気分転換だ」と無理やり引っ張られてきたが、とんでもない。気分はさらに沈む一方だ。

懐中電灯の光が、剥がれかけた壁紙のシミを浮かび上がらせる。染み一つ一つが、何か醜悪な形に見えてくる。元は白い壁だったんだろうが、今は黄ばんで、あちこち黒ずんでる。俺の今の精神状態とそっくりだ。ボロボロで、汚れてて、どうしようもない。

「おい、ここ、電気まだ生きてんのか?」
健太が呟いた、その瞬間だった。

バツン!

乾いた、しかし重い音が響いて、視界が完全に闇に包まれた。古い建物の配線がショートでもしたのか。いや、単なるブレーカー落ちか。懐中電中電灯は持っているが、思考が一瞬停止する。真っ暗闇。俺は思わず、持っていたスマホを握りしめた。これじゃ、無言電話がかかってきても、画面の光すら見えないじゃないか。何だよ、これ。停電?こんな廃墟で?

耳が、闇の中で研ぎ澄まされる。建物の軋む音、遠くで風が唸るような音、そして、どこからか、微かに何かが擦れるような、低い振動音が聞こえてくる。老朽化したダクトの中で、何かが蠢いているのか?
「おい、健太!」
俺の声は、闇に吸い込まれるように消えた。こんな状況で、家族からの電話に出られなかったら、どうすればいい?あの無言電話は、一体何を伝えようとしているんだ?無事なのか?それとも、何か危険を知らせようとしてるのか?不安で、胃がまたキリキリと痛み出す。

その時、暗闇の奥、廊下の突き当たりに、チカッと、本当に微かな光が点った。すぐに消え、また、ゆらりと現れる。まるで、誰かがゆっくりと息を吐いているみたいに。
「あれ、何だ…?」
健太も気づいたらしい。声が震えている。
微かな光は、ゆらゆらと揺れながら、闇の中に不気味な影を落としている。それが、壁の染みや埃で覆われた棚の形と重なって、まるで何か蠢く生き物のように見えた。パレイドリアだ、きっとそう。そう言い聞かせても、心臓はドクドクと不規則に脈打つ。ああ、また無言電話だ。バイブが鳴ってる。この真っ暗闇で、誰がかけてきてるんだ?家族か?それとも、何か別の、もっと不気味な存在が?

光に近づくにつれて、鼻腔をくすぐる匂いが強くなった。線香だ。甘く、しかしどこかひんやりとした、死を思わせる匂い。廃病院特有の薬品臭と混ざり合って、吐き気がする。さっきから胃が痛くて、冷や汗が止まらない。
「幽霊か…?まさか、本当にいるのか?」
健太が震える声で呟く。俺も同じことを考えていた。この病院で、誰かの無念が、こうして光を灯しているのか。あの無言電話と、何か関係があるのか?家族に、何かあったのか?この廃病院で、何か不気味なものが、俺を呼んでいるのか?
光は、近づけば近づくほど、その姿をはっきりとさせる。それは、小さな、しかし力強い炎だった。ゆらゆらと、闇の中で瞬いている。

ついに、俺たちはその光の元にたどり着いた。
そこにあったのは、いくつものろうそくの炎だった。そしてその周りには、使いかけの線香、くたびれた供花が、床に直接置かれている。
「何だよ、これ…」
脱力感が、一気に全身を襲う。幽霊なんかじゃなかった。でも、これはこれで気味が悪い。誰が、こんな廃墟に、供え物なんてしてるんだ?
「…ったく、勘弁してくれよ」
健太が、呆れたようにため息をついた。
「隣の部屋、緊急で配管の漏水修理してるんだってさ。夜間じゃないと騒音が響くからって。で、作業員の人たちが、ここで安全祈願してんだってよ。仮設の祈り場として使ってるんだと」
健太が指さす先には、壁の向こうから、かすかに工具の音が聞こえる気がした。
なるほど、それで深夜作業か。仮設の祈り場。まさか、こんな廃病院の一角が、そんな理由で使われてたなんて。

俺は、ドッと座り込んだ。恐怖と、脱力感と、そして何より、家族からの無言電話への焦りが、ごちゃ混ぜになって胸を締め付ける。結局、何も解決してねえ。このどうしようもない不安は、消えちゃくれない。スマホを握りしめる。また、着信履歴に「非通知」の文字が一つ増えていた。胃が痛い。本当に、俺は何をやってるんだろう。こんな場所にいる場合じゃない。
早く、家に帰って、あの電話の真相を確かめなきゃ。そう思うと、また、体中が冷えていくのを感じた。