倉庫の闇、あの無言電話が鳴る。

まったく、こんな時間にまで駆り出されるなんて。もう午前二時を回ってるじゃないの。この歳で夜中にレンタル倉庫を漁る羽目になるなんて、ほんと、誰が想像したかしらね。背中の凝りが酷くて、肩甲骨のあたりがジンジン痺れてくる。最近は寝つきも悪くて、朝までぐっすりなんて夢のまた夢。たった数時間の仮眠で、もう体中が鉛みたいに重いのよ。ああ、胃のあたりもムカムカしてきたわ。

薄暗い倉庫の中は、埃っぽい匂いが充満している。ひんやりとした空気が肌を刺す。昔、友人が無言電話に怯えていた夜を思い出すと、この静寂がまた、妙に胸をざわつかせるのよ。あの子は結局、行方不明のままだ。警察は事件性がないとか言ってたけど、私は信じてない。あの無言電話のせいで、あの子は…あの子は。あの重苦しい「ブーッ」という音が、今でも耳の奥にこびりついて離れない。

「ったく、どこにしまい込んだのよ、この資料」

独り言を呟きながら、薄暗い通路を奥へと進む。自動照明がパッとついたり消えたりするたびに、心臓が跳ね上がる。チカチカと点滅する蛍光灯の光が、私の神経を逆撫でするの。まるで古い映画のワンシーンみたいで、妙に現実感が薄れる。視界の隅に、何かが動いたような気がして、思わず身構える。きっと疲れているせいよ。そう、疲れているだけ。でも、この手の不安って、一度取り憑かれると中々消えてくれないのよね。

と、その時。

耳の奥に、不快な音が響いた。

「ブ、ブー…」

重い、低い、唸るような音。まるで、地中深くから這い上がってくるような、不気味な響き。背筋に冷たいものが走った。体が硬直し、足元がぐらつく。この音…この音は、まさか。

「ブーーーーーッ」

今度はもっとはっきりと聞こえる。それは、あの夜の、無言電話の音にあまりにも似ていた。心臓がドクドクと不規則に脈打ち、全身から脂汗が噴き出す。呼吸が浅くなり、胸が締め付けられるような苦しさが襲う。ああ、まただ。またこの感覚だ。胃の奥からこみ上げてくる吐き気。目の前がチカチカする。

周囲の薄暗さが、まるで私の心を映し出すかのように、どんどん濃くなっていく気がした。通路の奥、積み上げられた段ボールの影が、まるで巨大な何かがうずくまっているように見える。その黒い塊から、あの不気味な音が聞こえてくるのよ。

「ブーーーーーッ、ジーッ…」

時折、ノイズのように「ジーッ」という微かなスパーク音が混じる。まるで、何かの回路がショートしているかのような。それが、さらに私の恐怖を煽った。あの時のあの子の顔が、フラッシュバックする。怯えきった、絶望に満ちた顔。私がもっと早く気づいていれば、もっと何かできていれば。

「いや…違う、違うわ。落ち着いて、私」

震える声で自分に言い聞かせる。でも、足は鉛のように重く、前に進めない。あの黒い塊が、私を嘲笑っているように見える。影が揺れるたびに、まるで生き物のように蠢いているように錯覚する。ああ、神様、どうか。どうか、またあの悪夢を繰り返さないで。

「ブーーーーーッ…ジーッ、ジーッ…」

音は途切れることなく、私の鼓膜を震わせる。頭の中であの子の声と、あの電話の音がぐるぐると混ざり合い、もう何が現実で何が幻なのか分からなくなってきた。目の前の黒い塊が、まるで電話機のように見えてくる。黒くて、重くて、そこから得体の知れない悪意が発せられているような。

もう駄目だ、逃げたい。今すぐここから逃げ出したい。でも、足が動かない。体が震えて、まるで発作寸前みたいだ。

「や、やめて…」

喉から絞り出すような声が、虚しく倉庫に響く。このままでは、またあの夜の悪夢に飲み込まれてしまう。

ふと、深呼吸をしてみた。冷たい空気が肺の奥まで届き、少しだけ、ほんの少しだけ、頭が冴えた気がした。いや、気のせいかもしれない。でも、このままでは本当に気が狂ってしまう。意を決して、私は震える足を引きずりながら、音のする方へと一歩、また一歩と近づいた。

積み荷の隙間を縫うように、奥へと進む。薄暗い通路の隅、錆びた棚の陰に、確かにソレはあった。

黒い、大きな塊。

それが、私の足元に転がっていたのだ。

「ブーーーーーッ…ジーッ、ジーッ…」

音は、紛れもなくその塊の中から発せられている。私は震える指先で、その黒い塊をそっと、つついてみた。

ぐにゃり、とした感触。そして、カサカサという音。

それは、大きな黒いゴミ袋だった。

私の心臓が、ドッと音を立てた。ゴミ袋?

恐る恐る、袋の口を少し開けて覗き込む。薄暗い中に、微かに光るものが見えた。古い、使い古されたスマートフォンだ。充電器が無理やり差し込まれているが、どうやら接触不良を起こしているらしく、差し込み口から微かにスパーク音が聞こえる。そして、バッテリーが劣化して膨張しているのか、内部で低周波の唸り音を発している。おそらく、このレンタル倉庫の仮設電源から無理やり充電でもしていたのだろう。近くの24時間営業の飲食店が、一時的にゴミをここに置かせてもらっていると聞いたことがある。きっと、そのお店の誰かが、不用品を捨てようとここに置いていたのだろう。

脱力感が、全身を襲った。膝から力が抜け、その場にへたり込む。なんだ。なんだって言うのよ、これ。私がこんなに怯えて、震えて、過去のトラウマに押しつぶされそうになっていた原因が、ただの、ゴミ袋の中の、壊れかけの携帯電話だったなんて。

「ハハッ…」

乾いた笑いが、私の喉から漏れる。自嘲するしかないわ。こんなことで、またあの悪夢を呼び起こして、馬鹿みたい。冷や汗で濡れたシャツが肌に張り付いて、気持ちが悪い。胃のムカつきも、体の震えも、全部、この馬鹿げた勘違いから来ていたなんて。

でも、本当に安心した。これほど、心底安心したのは久しぶりだ。あの、得体の知れない恐怖が、ただの生活の残骸だったなんて。ああ、それにしても、このゴミ袋、とんでもなく生臭い匂いがするわね。きっと、飲食店の残飯でも入っているんだろう。こんなところで、私のトラウマを呼び起こすなんて、本当に迷惑な話だわ。早く資料を見つけて、こんな場所、二度と来るものか。