
ああ、もうダメだ。この、誰もいない、ひんやりとした金属の空間。ここを通るたびに、心臓がみぞおちから飛び出しそうになる。息が詰まって、胸がぎゅうっと締め付けられる。足がすくんで、一歩踏み出すのも億劫になる。この非常階段、私は毎晩、この恐怖と戦いながら通らなきゃいけないんだ。一体いつになったら、この一人ぼっち恐怖症とやらは治ってくれるんだろうね。誰か、誰かいないの?
非常口の重たいドアを押し開けると、錆びた金属の生臭い匂いと、淀んだ空気の塊がまとわりつく。深夜2時。ビルの最上階から地下駐車場まで、この薄暗い非常階段を降りていくんだ。天井の蛍光灯は、半分以上が切れていて、残りの数本も、薄汚れたカバー越しにぼんやりと光を放つだけ。壁には、誰かが蹴ったのか、それとも資材でもぶつけたのか、黒ずんだ傷跡があちこちについている。ああ、嫌だ。本当に嫌だ。
一段、また一段と降りていくと、ふいに、足元がおぼつかなくなる。胃のあたりがぞわぞわと不快な音を立てて、吐き気がせり上がってくる。
その時だ。
「……ん?」
ふと、上を見上げた。踊り場の天井、薄汚れたコンクリートの表面に、黒ずんだシミがぼんやりと浮かんでいる。いや、シミだけじゃない。その黒い塊の向こうから、かすかな光が、不規則に、チカッチカッと点滅しているように見えた。まるで、何かの影が、蠢いているかのように。
同時に、耳の奥で、低く重い、唸るような振動音が響き始めた。
ゴー、ウウー……。
まるで、天井裏で何かが不規則に擦れるような、あるいは、壁の向こうで重いものが、ゆっくりと動いているような。
「あ…あそこに、何かいるのか?」
思わず声が漏れた。喉がカラカラに乾いて、声が擦れる。シミに視線を固定する。気のせいか?いや、気のせいじゃない。あの光のちらつきに合わせて、シミの輪郭が、ずるり、ずるり、と形を変えているように見えるんだ。まるで、生き物みたいに。
心臓が、ドクン、ドクンと、喉元までせり上がってくる。冷や汗が背中を伝い、身体中が粟立つのを感じた。こんな時に、一人ぼっちだなんて。誰か、誰か助けて。こんな場所で、私一人きりだなんて。誰かに見られているような、見捨てられたような、この嫌な感覚。
振動音が、徐々に大きくなっていく。天井のシミも、光の明滅も、よりはっきりと、より不気味に、私の視界を支配し始めた。ドスドス、と、低い振動が床を伝って、足の裏から全身に響いてくる。
「止めて…やめてくれ!」
叫びながら、私は一歩、また一歩と後ずさった。足が震えて、まともに踏ん張りがきかない。非常階段の冷たい金属の壁に背中がぶつかり、ガツン、と鈍い音が響いた。逃げ場がない。この閉塞感が、私の恐怖症をさらに煽る。息が苦しい。酸素が足りない。全身の皮膚がひりひりするような感覚。
もう、立っていられない。へたり込みそうになるのを必死で堪え、私はその場に立ち尽くしていた。
どれくらいそうしていただろう。数分だったのか、それとも永遠にも思える時間だったのか。
やがて、その音も光も、ぴたりと止まった。
身体中の力が抜けて、私はその場にへたり込んだ。しばらく動けずにいたけれど、このままここにいるわけにはいかない。まだ、地下駐車場まで降りなきゃいけないんだ。
なんとか震える足で立ち上がり、もう一度、恐る恐る天井を見上げた。
シミはそこにある。ただの、黒ずんだシミだ。光のちらつきもない。音も、もう聞こえない。
一体、何だったんだ?私の幻覚?それとも、あの場所で、本当に何か…?
意を決して、もう一度、恐怖で固まりかけた身体を引きずるように階段を降り始めた。さっきの踊り場まで戻り、ぐるりと回り込む。
その時、目の端に、不自然な塊が飛び込んできた。
踊り場の隅、薄汚れた段ボール箱の影に、それは隠れるように置かれていた。
マッサージチェアだ。
真新しいビニールがかけられたまま、まだ梱包材が少し残っている。そして、そのヘッドレスト部分が、天井の低い部分に、ぎりぎりまで接近しているのが見えた。
壁の清掃用コンセントには、使い古された、緑青が浮いたような延長コードが差し込まれ、そこからマッサージチェアに電力が供給されている。
「まさか…これだったのか」
愕然とした。と同時に、全身からどっと力が抜けていく。
さっきの低い振動音は、このマッサージチェアのモーター音だったのだ。そして、光のちらつきは、操作パネルのLEDか何かが、非常階段の金属壁や天井の塗料のシミに反射して、不規則に明滅していたのだろう。それを、私が勝手に、天井のシミが形を変えているように見えた、と。パレイドリア、というやつか。
あまりにも馬鹿らしくて、力が抜ける。と同時に、沸々と怒りが込み上げてきた。一体、誰がこんなところに、こんな時間にマッサージチェアを置いて、しかも動かしてるんだ。
「あー、ごめんごめん。まさかこんな時間に誰か通るとは思わなくてさ」
突然、背後から声がして、私は飛び上がった。
振り返ると、ビルの1階に入っているコンビニの店長が、申し訳なさそうに立っていた。手には、飲みかけの缶コーヒー。
「店長…?」
「いや、実はね、この新しいマッサージチェア、明日から店に出すことになっててさ。で、今日中に届くってんで、一時的にここに置かせてもらってたんだ。こんな時間しかまとまった時間取れなくて、明日出す前に、一応動くか確認しとこうと思ってね。まさか、あんたが通るとは思わなかったもんで。うるさかった?ほんとごめん」
店長は、頭をかきながら、へへ、と苦笑した。
ああ、なんだ。結局、私の恐怖は、ただの新品のマッサージチェアと、深夜に作業をする店長のせいだったのか。あの、心臓が飛び出しそうになるほどの恐怖も、胃の底からせり上がってくる不快感も、冷や汗も、鳥肌も。全部、このマッサージチェアのせい。
脱力感と、なんとも言えない情けなさが全身を包む。
非常階段での一人ぼっち恐怖症は、まだ治りそうにない。それどころか、今夜の出来事で、さらに悪化してしまったかもしれない。
私は、まだ薄暗い非常階段の奥へと、重い足を引きずって降りていった。あのマッサージチェアの、どこか間の抜けた存在感が、心底、腹立たしかった。