
ちくしょう、こんな時間に何やってんだ俺は。深夜の地下街、薄暗い通路をトボトボと歩いて、ようやく見つけた24時間営業の衣料品店。まさかこの歳で、新しい肌着を買いに夜這いする羽目になるとはな。背中に嫌な汗がじっとり張り付く。冷房が効いているはずなのに、妙に体が熱い。このジメッとした不快感、どうにも好きになれねぇ。
試着室、試着室……。店の奥、ずらりと並んだカーテンの向こうに、いかにも狭そうな小部屋が見える。ああ、無理だ、この閉塞感。子供の頃から、狭い場所ってのがどうにも苦手でな。エレベーターに乗るたびに息苦しくなるし、飛行機なんて拷問だ。試着室も例外じゃない。扉を閉めた途端、全身の毛穴が開いて、一気に汗が噴き出すのが常だ。いまも額にじんわりと汗が浮かんできやがる。早く済ませて、この息苦しさから解放されたい。
やっとのことで試着室に入り、ずっしりとした木のドアを閉めた。ガチャン、と重い音が響いて、本当に閉じ込められた気分になる。ああ、もう駄目だ。背中を伝う汗が、シャツの生地を湿らせて、肌にベタつく。気持ち悪い。早く終わらせてここを出よう、そう自分に言い聞かせ、鏡に向かってシャツを脱ぎかけた、その時だ。
鏡の端っこ、俺の肩越しの壁の辺り、そこがチカチカと点滅しているのが見えた。最初は目の錯覚かと思った。だが、何度瞬きしても、その微かな光は、まるで不規則なモールス信号のように明滅を繰り返している。最初は青白い光、それがすぐに赤みを帯びて、また消える。まるで電子機器のインジケーターだ。こんな場所にLEDなんてあるのか?監視カメラか何かか?まさか、この店は深夜にまで客を監視してるってのか?
「おいおい、なんだこりゃ…」
声が震えた。こんな狭い密室で、見覚えのない光が点滅している。何か異常事態が起こっているんじゃないか。俺は急いでシャツを掴み直し、部屋の中を見回した。汗が止まらない。額からツーッと冷たいものが垂れて、目に入りそうになるのを乱暴に拭った。閉じ込められている、という恐怖感が、脳みそを直接締め付けてくるようだ。
壁を隅々まで見渡す。しかし、そんな電子機器の影も形もない。照明は天井の蛍光灯一つだけ。もちろん、そこから点滅しているわけじゃない。鏡のフレームも、ハンガーラックも、全部ただの備品だ。どこにも光の元が見当たらない。
焦りが募る。この、皮膚の表面だけでなく内側からも湧き上がってくるような汗。シャツが完全に肌に張り付いて、もう脱ぎ捨てる気力も失せた。早くここを出なきゃ。俺は慌ててドアノブを掴んだ。ガチャガチャと回す。しかし、ノブは空回りするだけで、ドアはピクリともしない。
「開かない…!嘘だろ!?」
まさか、本当に閉じ込められたのか?この、俺が一番嫌いな狭い空間に?呼吸が浅くなる。鼓動がドクドクと耳元で鳴り響いて、血の巡りが悪くなるようだ。全身から噴き出す汗はもう止まらない。シャツはびしょ濡れで、まるで風呂上がりのようだ。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い!誰か、誰かいないのか!
パニックのあまり、俺はもう一度、光の元を求めて部屋中を引っ掻き回した。ハンガーラックの奥、壁の窪み、鏡の裏側まで覗き込む。足元の隅っこ、ハンガーラックの影に隠れるように、何か立てかけられているものがあった。最初は店の備品か何かだと思った。しかし、よく見ると、それはどうやら…
「…ポスター?」
そこにあったのは、等身大の女性モデルが微笑む、新作アパレルの宣伝ポスターだった。光沢のある紙が、薄暗い試着室の蛍光灯の光を反射している。そして、そのポスターの表面に、ハンガーラックの影が落ちていた。俺の体が揺れるたびに、わずかにポスターの向きが変わる。その動きと、蛍光灯のわずかなちらつき、それに影が重なることで、光が不規則に点滅しているように見えていたのだ。
「なんだ、これ…ただの、ポスター…?」
全身の力が抜けた。膝から崩れ落ちそうになるのを必死で耐える。点滅する光の正体が、まさかポスターの反射と影だったとは。俺の閉じ込め恐怖症と、深夜の薄暗さ、そして疲労が重なって、完全に幻覚を見ていたらしい。
ドアノブを回すと、今度はカチリと軽い音を立てて、あっけなく開いた。全く、最初から開いてたんだ。俺が焦って、ノブを回す手が震えてただけだったんだな。
店の奥からは、ガタガタと台車を動かす音や、遠くでスタッフらしき声が聞こえてくる。どうやら深夜の品出し作業中らしい。ああ、なるほど。このポスターも、新商品の搬入と一緒に運ばれてきて、まだどこに貼るか決まってないから、一時的に試着室の隅に立てかけられてたってわけか。全く、片付けがなってない店だな、とかなんとか、つい愚痴がこぼれる。
どっと疲労感が押し寄せてきた。結局、肌着一枚も買わずに、汗まみれのまま試着室を出る羽目になった。全身から噴き出した汗は、冷たい空気に晒されて、今度は肌寒さを感じさせる。ああ、このベタベタした不快感。家に帰って、まずシャワーを浴びなきゃ駄目だ。全く、こんなに汗をかいたのは、何十年ぶりだろうか。いや、こんなにも情けない汗をかいたのは、初めてかもしれないな。