
まったく、なんでこんな時間まで、俺はこんな場所にいるんだろうな。午前三時を過ぎたファミレスの店内は、蛍光灯の光さえも心なしか生気を失って、薄汚れた灰色に見える。カウンター席に座り込んでいるのは、俺を含めて三人。いや、正確には俺以外に二人。あいつらはスマホをいじってるか、ぼんやりと虚空を見つめてるか。どっちにしろ、俺と同じで、そこに「いる」だけだ。
胸の奥がずっと冷たくて、何か重いものがへばりついているみたいだ。吐き気がする。このだだっ広い空間で、たった一人。世界の果てに置き去りにされたような、そんな気分になるんだ。これが俺の、深夜ファミレスでの孤独恐怖症ってやつだ。壁のシミが人の顔に見えたり、遠くの換気扇の音が誰かの囁きに聞こえたりする。胃がキリキリ痛む。いっそこのまま消えてしまいたい。
さっき、トイレに行った。たった数分のことなのに、自分の席に戻るのがとてつもなく遠く感じられた。まるで、この店全体が巨大なブラックホールみたいに、俺を飲み込もうとしているようで。
で、その帰り道だった。レジの近く、通路のど真ん中。薄暗い床に、妙な光沢が走っているのが見えたんだ。
最初は、光の加減かと思った。こういう時間帯って、目が疲れてるからさ、幻覚を見ることだってある。でも、一歩、また一歩と近づくにつれて、それがただの光の反射じゃないってことが、嫌というほど分かってきた。
床が、濡れてる。
黒いビニールシートが敷き詰められたような、鈍い光沢。それは、小さな水たまりなんかじゃなかった。通路の半分くらいを覆うように、じっとりと濡れているんだ。足元が不意に冷たくなった気がして、思わず後ずさりした。いや、実際に冷たかったのかもしれない。底冷えするような寒気が、背筋を這い上がってくる。
心臓がドクン、と大きく跳ねた。全身の血の気が引いていくのが分かった。なんだこれ。何が起こった? 俺がトイレに行ってる間に?
周りに誰もいない。店員は奥の厨房で、ガタガタと何かやってるのか、全く気配がない。この静寂が、余計に恐怖を掻き立てる。妙に生臭いような、カビっぽいような、湿った匂いが鼻についた。いや、それは俺の鼻が勝手に作り出した幻想かもしれない。でも、この濡れた床のせいで、空気全体が湿っぽく、重苦しく感じられるんだ。
胃の奥から込み上げてくる吐き気と、胸の動悸が止まらない。孤独恐怖症が、今、完全に臨界点を超えていた。この濡れた床は、きっと、俺をここから追い出すための、何かのサインだ。幽霊か? 悪魔の仕業か? いや、そんな馬鹿な。でも、こんな深夜に、こんな広範囲の床が、一体どうやったら濡れるんだ?
視界が霞んで、目の前の濡れた部分が、まるで生き物みたいにジワジワと広がっているように見えた。足を踏み入れたら、そのまま底なし沼に沈んでしまいそうな気がする。俺はここで、誰にも気づかれずに、この濡れた床に飲み込まれて、消えてしまうんじゃないか。もしそうなっても、誰も助けには来ない。だって、ここは、深夜のファミレスだ。俺は、独りだ。
震える手で、ポケットのスマホを取り出す。電源は入っているが、何をどうすればいいのか分からない。店員を呼ぶ? でも、なんて言えばいい? 「床が濡れてます」? 馬鹿にされるだけだ。きっと、掃除でもしてたんだと、そう言われるに決まってる。
でも、こんな広範囲に、こんな夜中に、掃除なんかするか? 湿り気が肌にまとわりつくような不快感に、思わず腕を擦った。鳥肌が立っている。
不安と恐怖で、思考がまとまらない。呼吸が浅くなって、息苦しい。ふと、視線を右にやった。セルフレジの機械が、そこに立っていた。薄汚れたプラスチックの筐体。普段は気にも留めない、ただの機械だ。
その機械の、小さな隙間から、何かがポタ、と落ちた。
……ん?
もう一度、ポタ、と。
見間違いかと思って目を凝らす。蛍光灯のぼんやりした光が、その落ちていく何かを、一瞬だけ捉えた。
水滴だ。
機械の、ちょうど下あたり。そこから、小さな水滴が、規則的ではないけれど、微かに音がするくらいの間隔で、ポタ、ポタと落ち続けていた。電源コードがだらしなく壁のコンセントに繋がっているのが、薄暗い中でもぼんやりと見えた。
ああ、そうか。これか。
セルフレジの機械。こんな時間まで、何かの故障か、それとも深夜のテスト稼働か。ともかく、その機械から、水が漏れていたんだ。
俺が遠くから見た時、薄暗い照明と、俺自身の恐怖心で視界が歪んでいたせいで、小さな水滴が落ちているだけなのに、床全体が濡れているように見えていたんだ。しかも、俺の孤独恐怖症が、それを「何かの異変」だと、勝手に拡大解釈していた。
「……は、はは……」
情けない声が漏れた。どっと、体の力が抜けていく。膝から崩れ落ちそうになるのを、なんとか踏みとどまった。
幽霊でも、悪魔でも、何かの超常現象でもなかった。ただの、水漏れ。
こんな単純なことに、俺はここまで追い詰められていたのか。
安堵した、はずなのに、心臓の動悸はまだ少し残っている。そして、この深夜ファミレスに一人でいるという、底なし沼のような孤独感は、何も変わらない。むしろ、こんなくだらないことで、これほどまでに怯えていた自分自身が、もっと惨めに思えてきた。
ポタ、ポタ。
機械の涙みたいな水滴の音だけが、やけに鮮明に、この静かなファミレスに響いていた。